ある年の春、莫言さんと大阪府にある川端康成の旧居を訪れた。その時、神戸から関西国際空港までマイカーで迎えに行った。彼は私に会うなり「飛行機では黙って、心の中で悪だくみをしていたよ」と言った。そして笑って尋ねた。「川端康成先生もこんな感じじゃなかったかな。どこに行っても心の中であれこれ、悪だくみして、あんまり話さない癖があったんじゃないかな」
莫言さんは、自分が川端先生の小説に啓発されたと言っていた。作家同志のコミュニケーションは現場からくるものが多い、生きている者が死者を訪ねた場合でもそれに変わりはないのだとも言った。
私と莫言さんが川端康成旧居を訪れたのは、ある日の午後、晴天、無風だった。出迎えてくれたのは川端家の遠縁の老婦人で、髪はすっかり白髪になり腰は曲がっていたが、話し声は力強かった。彼女は杖を手に、遠くが見渡せる場所にわれわれを案内した。川端は子供の頃からこうやって塀後した遠くを眺めていたという。近くのものは見ようとせず、一人で何もせずにじっと一か所に立って遠くを眺め続けていたと老婦人は言った。
私は川端先生のエッセイの中で当時のことに触れた箇所があったのを思い出した。たしかこんな情景だ。祖父が事業に失敗して、裕福な生活がたちまち崩れ、ずっと子守りをしていた女性もしかたなく里に帰っていった。ところが、ある日、彼が寂しく思っていると、突然、子守女が塀の外から声をかけてきて彼に食べ物をくれた。それ以来彼が遠くを眺めるのが好きになったのは、ある種の温もりの訪れを待つためだったのかもしれない。
経緯を書いてみればこれだけのことであり、それ以上の込み入った話はない。ところが、中国の一人の作家が静かに川端先生の体験に入り込んだとき、そこにコミュニケーションが生じ始めるのだ。莫言さんは「ある作家を知るにはまず彼の経験を知る必要がある」という。そのためにはわれわれは旅をしているのであり、莫言さんは川端家の遠縁の老婦人の熱心な説明を聞き、川端文学記念館の館長に幾つも質問した。どんな質問だったか私は忘れてしまったが、彼が私に尋ねたことは覚えている。
「その頃彼と一緒に遊んだ幼友達はその後どうしたんだろう?」
どうやら、莫言さんは川端先生が子供の頃とても孤独だったと言う説明をあまり信じていないらしく、少なくとも、川端少年にも友達はいただろう、大勢ではないにしろ、きっといたはずだと思っているのだ。
作家・莫言という一人の生者が中国からやってきた。一方に、川端康成という、ガス自殺した日本の作家がいる。この二人がある時間軸の中に身を置き、一方がもう一方の経験から何を見つけたとき、文学のコミュニケーションが完成する。そしてこのようなコミュニケーションが、莫言さんが私との旅行をしている最中に実現したことは、私にとって得難いことだ。

02 中文译文
有一年的春天,我陪同莫言寻访了川端康成的故居,地点在大阪府。当时,我从神户开车到关西国际机场接他,莫言一见到我就说:“飞机上都没有人说话,憋坏了。”然后他笑着问我:“你说川端康成当年是不是也这样,到哪儿都有犯憋的毛病,话不多吧?”
莫言承认自己受川端小说的启发,而且还说作家之间的沟通很多都是来自现场的,即便是一个生者寻访一个死者,这一沟通的模式也不会发生改变。 我与莫言到川端故居寻访是在一个下午,晴天,无风。出来迎接我们的是川端家的一位远亲,满头白发,腰弯弯的,说起话来却中气十足。她手里拿了一根拐杖,带着我们往很远的地方眺望。她告诉我们川端很小的时候就是这样隔着一道围墙往远处眺望的,他不喜欢看近处的东西,宁愿一个人什么也不做,站在原地一个劲儿地往外看,一直把眼睛看得直勾勾为止。 我记得川端在他的一篇杂文里讲过这段经历,当时的情景大致如下:祖父家破产了,相对富裕的生活一下子都毁掉了。一直为其做保姆的女人也不得不离开。但是有一天,当他心里觉得凄凉时,突然发现保姆站在墙外跟他打招呼,而且还给他送来吃的。从那以后,川端就变得喜欢向远处眺望,也许是为了等待某种温暖的到来。 事情就是这么平铺直叙,听起来没有过多的曲折,不过,当中国的一位作家悄然走入川端的经历时,沟通也就开始了。莫言说:“了解一位作家最先应该了解他的经历。”这句话显然道出了我们旅行的缘由,莫言一边听来自川端家远亲的热心讲解,一边向川端康成文学纪念馆的馆长提出了不少问题。至于这些问题是关于什么的,我没能记住,但我记住了他问我的问题。 “你说,当年跟川端一起玩的童年伙伴现在都去哪儿了呢?” 看来莫言不太相信川端小时候非常孤僻的说法,至少他觉得川端应该有伙伴儿,哪怕不多,也一定有。 作家莫言,一个生者从中国而来,川端康成,一个吸了煤气而自杀身亡的日本作家。当这两个人处于某一个时间段,一方从另一方的经历当中有所发现的时候,文学的沟通也就完成了。更何况,这样的沟通是在莫言与我一同旅行中实现的,对我而言,是珍贵的。